松原剣道・剣友会


剣道のお話

剣道のお話

竹刀について
名誉師範 剣士 友川 紘一

諸文献中に「しない」に関する記載を調べてみると、しなへ・撓・竹刀などとしてみることができる。語源は、木刀に対して柔らかく、弾性のあるものとして呼びならわされたことによるものであろう。

江戸初期の慶長年間(1596~1615)以後、正徳・宝暦(江戸中期)の頃までに、「しない」を使用した流派は、新陰流系統の柳生流、疋田(ヒキタ)流などであり、撓の形態は、柄の部分から先の竹を割り、革袋でそれを包む「袋竹刀」と呼ばれるものであった。

現在のような四枚の竹を結束した竹刀は、江戸中期頃、一刀流の中西忠蔵や、直心影流の長沼四郎左衛門等によって剣道防具と共に完成したといわれる。

当時の竹刀の長さは、木刀や刃引きと同じぐらいの長さ三尺三寸から六寸位が常寸であった。現在の木刀の寸法は、太刀三尺三寸五分(約102センチ)柄八寸(約24センチ)である。

天保年間(1830~44)のことで、柳川藩の大石進という剣客が、五尺三寸の長竹刀を掲げて全国各地の道場を破竹の勢いを以って突きやぶったという逸話がある。ついに江戸の三傑(位は、鏡心明智流の桃井春蔵・技は、北辰一刀流の千葉周作・力は、神道無念流の斉藤弥九郎)の一人千葉周作と剣を交え、大石進五尺三寸の長竹刀に対し、千葉周作は四斗樽の蓋を鍔として、これに応じ、云々という全く滑稽な話がある。

後に天真一刀流の白井亨に三尺六寸の撓でもって破れている。大石に破れた剣士達は、挙って四尺から六尺の長竹刀使用が流行し、ついには遊戯的な剣術になった。

その後、安政三年(1856)に江戸に講武所ができ、これを憂(ウレ)いて、時の講武所師範男谷精一郎信友は、講武所規則覚書に、「撓は、柄共総長さ曲尺(カネジャク)にて、三尺八寸より長きは相成らず、云々」と定め、これが現在の竹刀の長さの基準となっているようである。

竹刀には五つの節がある。 この節は、五倫・五常(儒教の訓え、孟子の説いたもの)、仁・義・礼・智・信の五つの徳を説いたものであり、剣道の五徳といわれている。

剣道が復活した時に初代の木村篤太郎会長は「知・仁・勇」の三徳(古典の四書である中庸の録から引用と思う)を以って剣道を標榜して、連盟旗にしている。また現在、会員の胸につけているバッジもこれを表わすものだ。

竹刀の節について、剣先から最初の節を天(知)、二個目の節を地(仁)、三個目の節を人(勇)、四個目を礼、五個目を信といわれている。知とは、口をもってはしると書く。良くしること。知恵であり、相手をよくしることである。竹刀の物打ちである。仁とは、人が二人である。孔子が提唱した道徳観念。礼にもとづく自己抑制と他者への思いやり。忠と恕の両面をもつ(まどころとやさしさがあること)。剣道の合気と調和である。勇とは、力量がすぐれて強いこと。正義。勇気。克己心である。剣道では、捨てきるところです。

重さは、古来から軽い竹刀は重く、重い竹刀は軽く使えといわれる。高野佐三郎「剣道」では、平素は、やや重い竹刀を使い、馴れるとよし、しかし試合などの時には、これよりやや軽きものを使えば自在に技を演じ得る。要は自己の力量に相応じたものが良いでしょう。とあるが参考にされたい。

古来我が国民は、つるぎ、太刀を日本人の心である「三種の神器」(皇位の象徴として代々の天皇が継承する、ヤタノカガミ・ヤサカニノマガタマ・アメノムラクモノツルギ)の一種として、崇拝してきた。

武人は、「刀剣は我魂なり、我心を知らんと欲せば、我帯ぶる刀剣をみよ」といっている。従って竹刀を執る者は、日本刀に接する真摯な態度が大切ではないだろうか。全目本剣道連盟では竹刀を日本刀という観念で認識させるよう指導している。

参考文献

高野 佐三郎 著 「剣道」

堀  正平  著 「大日本剣道史」

警視庁剣道連盟  「剣道のしおり」

全日本剣道連盟  「剣道の歴史」