松原剣道・剣友会


剣道のお話

剣道のお話

※「松永秀人先生著 恩師の訓(おしえ)」は、松永秀人先生の許可を受けて掲載しております。

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恩師の訓
私が中村藤吉範士・中村太郎範士に学んだこと
大義塾OB 松永 秀人
平成八年八月十八日
恩師の訓(おしえ)

私が長崎県佐世保から単身上京し、東京杉並にあった『大義塾剣道々場』中村藤吉範士のもとに直弟子として入門を許されたのは昭和二十八年(1953年)でした。当時は剣道の稽古が正式に許可されておらず剣道の先生方の不遇時代であったと思います。

そんな時期、どこの馬の骨ともわからない一青年を周囲の反対を押し切って書生として道場に住み込ませ身近にご指導いただいた師の温情を想うと今でも目頭が熱くなります。

早朝五時起床。道場を掃除して清め、師を迎えて稽古をつけてもらい、終わると家の中、庭の掃除、通学。夜は塾生とともに他の先生方にも稽古をお願いし、時には師のお伴をして出稽古という生活を約1年。その後、中村太郎範士(師のご令息、全日本選手権二回優勝)が間接に経営しておられた牛乳店で牛乳の配達をさせてもらいながら、昭和三十二年(1957)四段を認可され、大学へ進学するまで修行を続けました。

師は私が未熟であったせいか剣技についての叱正はほとんどありませんでしたが、日々の生活の中で動作や礼儀作法など、非常に厳しく指導された内容は、現在考えると、即、実社会で役立つ『剣理』そのものであったと感じています。

後年、創業したばかりの企業に入社し、私のような浅学菲才な者が、他に伍して仕事ができたのは『恩師の訓』に負うところが大きかったと深く感謝しています。

中村藤吉範士の訓

大きな声を出す

私が中村藤吉範士のところに入門して、最初に指導されたのは、【大きな声を出すこと】と【声は体全体で出す】ということでした。田舎の貧乏な家に育った私は極端に声が小さかったのです。【大きな声】を出していると、剣道で大切な丹田に力が自然に入るようになるとも教えられました。真剣をとって幾多の修羅場を経験したという師の声は、大きく独特な迫力がありました。

次に注意されたのは【呼ばれたら間髪を入れず大きな声で返事をする】ことでした。最近は自分の名前を呼ばれても「ハイ」と返事をする人が非常に少ないようですが、師が数間離れた座敷から声を掛けられても、大きな声で返事をし、すぐに師の所へ行く。【間髪を入れず】返事をし動作を起こすことは、剣道の『石火の機(柳生流)』を自得することであったと考えます。少し声が出せるようになってくると【大きな声で挨拶をする】ことをやかましく指導されました。挨拶とは禅語で【近づく】【引き出す】という意味があり、人間生活の最も大切な規範であるとも云われました。

朝起きると師の部屋に「お早うございます」と挨拶に行くのですが、声が小さかったり、はっきり云わないとよく叱られました。声を出すことは剣道修行の第一歩ですが、師はそれを日々の生活の中で指導されました。【大きな声で返事ができ、挨拶が出来る人】は、実社会では好感をもって迎えられます。後年、私が会社に入って、営業で拡販の為に顧客を訪問したとき、新しい職場の長となって赴任したおりなど、師に躾けていただいた【大きな声で挨拶をする】ことが、私を大いに助けてくれました。

●掃除は心を磨く第一歩。

あらゆる・道・の修行は、掃除(清掃、整理、整頓)から始まります。私も中村先生宅では、毎朝自分の部屋は勿論、道場・庭・廊下の掃除をしました。

師の部屋と座敷は師自らなさいました。座敷には刀剣・槍・弓矢・薙刀や鎧などの武具の他に得難い骨董品が有り、そのひとつひとつをきれいに磨くのを時々手伝いましたが、その折々に教えられたことは今でも忘れることはできません。

『自分の生活する身辺をきれいに掃除することは、自分自身の心を磨くことで、武道修行の第一歩であり、掃除が立派にできるようになればどんなこともできるようになる。体を動かすことで足・腰が鍛えられる。『今日は休みたいナァ』という気持ちにうち克って継続することで克己心が育ち、人の目に触れない所までも気を配ってきれいにすることで注意力が、置物等を飾ることでバランス感覚が養われる。終わって用具をキチンとかたづけることで物事の始末ができるようになる等々。掃除は人間を磨く為の基本的な行である。』

現在は当時(昭和二十八年頃)とは掃除の仕方も違って大変楽になりましたが、根本は変わらないと思います。私も師の年齢に近くなった今、本当に師の教えの通り掃除ができているかどうか反省しています。

道歌に・急、去、尽、受、居、迷、来(打突の好機)、動静写し看る明鏡の台・とあります。心を澄ます稽古をすることで、相手の心身の動きが良く看えるようになり、打突の好機を逃さないようになると云う意味ですが、その第一歩である掃除を積極的に行いたいと考えています。

『構え』は道場での打ち合いだけのものではない

或る冬の日、私は庭先で立ったまま左手に炭を右手に鋸を持って長い炭を切っていました。(当時は暖房のために炭を使い短く切って燃やした。)縁側でその仕事ぶりを見た師が、私の所まで来て

『お前は構えということがわかっていない。何故、台を置き椅子を用意して、安定した状態にからだを整えてから炭を切らないのだ! 【構え】とは道場で下段だ上段だといって修業するだけのものではない。ひとつひとつの動作や仕事をするのに一番楽に出来る工夫をすることが、即【構え】なのだ!』

といって大変叱られました。
その時はよく理解できませんでしたが、実社会に出て会社で仕事をするようになってから・構えの教え・が非常に重要であることを実感として体験しました。状況把握があいまいで下準備や予習のできていない仕事は、ほとんどが失敗に終わり、その折々に師の教えを想い出し反省させられました。

中国の古典「孫子」の中に「敵の来らざるをたのむことなく我の以って待つあるを頼む。」 敵が攻めてこないように祈るのではなく、いつでも下準備と用意をしておき、さあ、いつでも来い!自分の力で撃退させるぞ!という意味ですが、私はこの言葉と師の教えを重ね合わせて【座右の銘】としています。

■何事も『先々の先』の気概で行え

私が今日に至るまで愚直なまでに守っているのが「先々の先」の教えです。

『剣道でいう先々の先とは分かり易く云うと、学校や会社などで九時が始業だとする。九時ギリギリに門に入るようでは【下の下】だ。そんな者は碌(ろく)な仕事はできない。普通の人は十分前か三十分前に来るが、これもダメ。ちょっとできる者は一時間くらい前に来るだろう。それよりも早く行ってその日の仕事、学業の準備や予習をするのが先々の先だ。』

私はこの教えを守り、会社には一時間前に出勤することにしていたのですが、縁あって現会社の創業期からの社長の秘書を命ぜられた時、この教えは大変役に立ちました。

大きな仕事を成す人には個性の強い人が多いのですが、私の会社の社長も例に漏れず、【何が飛び出してくるかわかりません】特に地方の支店に同行した折など油断できませんでしたが、【先々の先】の教えを活用してそのほとんどの難関を切り抜けることができました。

『先々の先』とは剣道の高尚な技の一つといわれ、剣を持って対峙(たいじ)した時、相手が斬り掛かろうと思う気を素早く察知して、相手の動作が形に現われない先を斬って勝つことをいうのです。

これは私のような未熟者には至難の技ですが、絶えず【攻め】の気持ちを忘れず、物事に積極的に取り組むようにすれば、必ず道は拓(ひら)けると確信しています。

■【残心】のできる人の行為には無駄がない

師の家でのある日、私は早朝、庭を掃除をして塵(ごみ)や枯れ葉を樹の根本に掃き集めて出かけ、帰ってくると師の部屋に呼ばれて大変叱られました。

『お前は道場で【残心】ということをやかましく諸先生に教えられているだろう。残心は剣道での打ち合いの時だけではない。庭の掃除をするにも、塵や枯れ葉は捨てるなり、燃やすなりもう一歩最後の仕上げを行うのが残心というのだ。風が吹けば折角君が一所懸命掃き清めた庭もまた掃除をしなくてはならない。一寸した詰めを怠ったばかりに無駄なことをすることになる。【残心】は物事を確実に処理するのに非常に大切なことだとは思わないか!。』

【残心】【放心】(心の心=底の心=を残し、意の心=表の心=を放つ)は剣道の箴言として有名です。一つの動作を行った後、直ちに次の動作が行えるように準備をする心で、油断のない態度をとること(残心)。

心を物に捉われないようにして、心を自由自在に放っておけば【隅々まで】注意が行き渡ってどんな突発事態にも対処できるものである。(放心)。

私は師の【残心の教え】をこれまで大切にしてきましたが、この教えほど実社会生活に役に立つことはないと考えています。しかし、云うは易く行うは難かしい教えも少ないと思っています。
私は仕事でよく失敗しましたが、【あの時もう一歩の詰めを行っていたら!】と後悔することが多々ありました。

■剣道は剣を遣う術で、力くらべではない

現行の試合・審判規則が制定(昭和五十四年)されてから、剣道は稽古も大人しくなり、格闘技の中では一番安全な武道であるといわれます。

しかし、当時は、まだ突垂以外を突く、片手半面、体当り、足絡み、足払い等は序の口で大腰や肩車で投げ飛ばしたり、組打ちで面を剥(は)ぎ取るというような荒っぽい稽古をする人が多く見掛けられました。

先生方も前述のような荒っぽい格闘術の一手や二手は必ず秘術として持っておられましたが、今日ではそれらの術もほとんど拝見することができなくなりました。恩師は迎え突と面応じ胴から大腰で投げるのが得意で、体力のない私など一日に数回投げ飛ばされました。

その恩師が或る大会の審判をされた折(当時は二審制)一方の試合者が体当りをされ倒れながら右胴を打った技を採られて「胴アリ」と宣告されました。
後日、その試合を例にあげて、

『剣道は剣をつか遣っての術であり、いくら相手を投げ飛ばしても切られたら終わりだ。何事も無理・無駄・無法に偏っては大成することは難しい。』

と教えられました。
私などそれでも若い時は人の嫌がる技を一所懸命工夫したものでしたが、後年になってそれが何の役にも立たないことがよく分かりました。

剣道だけでなく物事は全て『三無(理・駄・法)』に偏ると大変な間違いを起こします。
企業でも、資本力以上の拡張をしたり、本業を忘れて金儲けに走って、法律に触れる行為をしているとその会社は必ず衰退するという事実を私たちは新聞などの報道で知ることができます。

■打たせてもらう気持ちを忘れてはいけない

『稽古は自分の全力を出し切ることが大切だが、先生方に掛かる時は、打ってもらう、打たせてもらうという気持を忘れてはいけない。』

不器用な私でも、恩師のご指導で三年ほどで少しは遣えるようになりました。(当時三段) 現今は、下位の者が【三本】と云って互角稽古をしていることがよくあますが、昔は上位の人が声を掛けてくれなければ打込み、掛り稽古が主でした。

或る日、珍しく恩師が打込み、掛り稽古の後、【稽古(互角)】と声を掛けてくれましたので、三本(試合)のつもりで勇んで掛りました。

私は恩師に小手や面を打たれましたが、「今はコブシ」、「まだまだ浅い」、「軽い」とか云って私は恩師の打ちを認めませんでした。
すると恩師は、稽古を止めて

『上位に掛かる時は、打ってもらう打たせてもらうという謙虚な気持ちが大切だ。若し軽くて一本にならない打ちであったら黙って【もう一本お願いします】という態度を示せばよい。今のお前の態度は稽古の品位を落とすからよくよく心するように!』

と云って大変叱られました。

本当の強さは、相手の心を見据えて、力を胆におき、打ってもらう打たせて頂くという素直な気持ちから発した技を云のですが、とかく未熟なうちは『俺が!俺が!』という我欲が先に立って失敗を重ねます。このことは剣道のみに限らず全てのことに通じると思います。

私も長い会社生活の中で多くの失敗をいたしましたが、今に至って当時を反省しますと、やはり『俺が!』という意識があったように思われてなりません。
【天命によって人事を尽くす】という箴言(しんげん)を忘れていたのでしょう。

■剣道は武士の表芸だ

現代剣道では左右どちらの胴を打っても有効打突と認められますが、戦前の先生方は左胴を打っても逆胴と云ってなかなか採ってもらえませんでした。

何故左胴は一本と認められないのですか、と質問しましたところ、恩師は

『剣道は武士の表芸だ。武士は腰に二本の剣を差している。一本を使って戦っても、もう一本が左腰に残っているので、左胴をきっても剣に当たって切れないから逆胴は確実な打ちでないと認めないのだ。剣道を修行することは根本に武士道精神を学ばなくてはいけない。』

【武士道】と云うと戦時中の軍部に悪用された為に現在では影をひそめてしまいましたが、明治時代、新渡戸稲造博士によって英文で世界に紹介され、現在でも欧米の識者の中では高く評価されています。

私は剣道が剣術から「道」として昇華できたのは武士道精神の特に道徳面を採用して修業の徳目としたからであると考えています。剣道から道徳教育を取り去ったら単なるスポーツとなってあまり魅力を感じられないのではないでしょうか。

■道場は師に『道』について指導していただく神聖な場だ。
 心身を清めて入らなくてはならない。

当時、大義塾の早朝稽古は大先生(中村藤吉範士)が内弟子の私ひとりのために行って下さったものです。最初は大先生と一対一で切り返し、かかり稽古ばかりを十五分~二十分行いましたが、そのうち塾生の中で学生や勤め人の元気な青年が参加するようになり、三十分から四十分間大先生から直接ご指導をいただいておりました。

現在落語家として独特な名人芸で活躍しておられる林家木久蔵師匠(真打。本名豊田洋氏)もそのひとりで、師匠は当時から何事にも忍耐強く努力をおしまない三段の猛者でした。(逸話については別項で述べたいと考えております。)

稽古は、厳しく辛いものでしたが、今にして想うと楽しく充実した青年期であったと思います。そんな修行の頃、私はよく大先生に叱られましたが、その中でもこっぴどく叱られた教訓を恥ずかしながら披露いたします。

二月の大変寒い日であったと記憶しています。その日は珍しく修行者が少なく私と兄弟子の矢原氏、外部から通いの石川君の三名で、広い道場の拭き掃除を終わらせ、甲手と面を前に竹刀を右に置き静座して大先生の入室を待っていますと、下駄音静かに道場に入って正面に着座された大先生はいきなり「お前達。顔をあらったか!」と聞かれました。

何と非常に恥ずかしいことですが、私たち三名は洗面を済ませておりませんでした。それを確認された大先生は『馬鹿者!』と一喝され、竹刀を執って私達のところまで飛んで来て、まだ武具を付けていない三名の面と突を打突されました。

『お前達はなんという心得違いをしているのだ! 道場の建物は大小新旧の差はあっても、竹刀で唯単に叩き合をする所ではない。師に人間の行う正しい「道」について教えを乞う神聖な場所だ。お前達は剣道を通じて師に道を教わりに来ているのであろう。その人間が朝顔も洗わずに道場へ入るとは何だ! そんな者に俺は剣道は教えん! そこへ座っとれ!』

と言って出ていかれました。私達はそのまま静座していますと、暫くして若先生(太郎先生)が来られて「親父が大変怒っていたが何があったのか。」と聞かれましたので、大先生に叱られたことを告げますと、「俺も一緒に行ってあげるから、反省している旨を話して謝れ!」と諭されましたので、私達は大先生の部屋まで行って許しを乞い一件落着しました。

四十年以上経った今日でも、その時の様子を起想することができますが、その時、大先生に打たれた心身の痛さを忘れることができません。最近は体育館などでの稽古が多くなり道場(仏教・釈迦が説法されたところ)という考えが少なくなったように思います。

私は剣道を練習している体育館に入る折りなど前述の大先生の教えを思い出しています。

■閑 題

私が剣道の手ほどきを受けた大義塾道場は、建物は無くなりましたが、現在でも杉並区の妙正寺体育館で週二回の稽古が行われています。道場の在籍者は二百名を超え、毎回高段者の先生方はじめ、青少年合わせて百名ほどの人たちが心身の鍛練に汗を流すという盛況振りです。

私は初代塾長中村藤吉範士に入門したのですが、二代目塾長中村太郎範士にも大変お世話になり、ご指導をいただきました。範士は不世出の名人でなかなかの美男子でした。
その稽古姿の美しさ、品位、実力は当時剣道界随一ではないかと噂された程の方で、全日本剣道選手権大会優勝二回(昭和三十年第三回大会、昭和三十四年第七回大会)、準優勝二回という素晴らしい剣歴の持主でした。

大変残念ながら昭和四十四年八月十八日四十七歳の若さで惜しまれつつなくなられました。若し現在まで生きておられたら(森島九段範士と国士館大学同期)私の剣風ももっとましなものになっていたのではないかと悔やまれてなりません。

先生(中村太郎範士)ご健在の当時を想い起こすと…私達門下生は先生の話を聞くのが楽しくて稽古終了後毎回猛者連が先生の部屋におしかけ、夜のふけるのも忘れて先生の話に聞き入ったものです。その数があまりに多いので、下位の者は廊下まではみ出る始末。そこで、酒などご馳走になるのが常でした。

■閑 題

先生(中村太郎範士)は、懇談の中で

『幕末時代に江戸三大道場(北辰一刀流千葉周作「玄武館」神田お玉ケ池。神道無念流斎藤弥九郎「練兵館」九段俎橋。鏡新明智流桃井春蔵「士学館」京橋朝蜊河岸)では門弟三千名を擁(よう)したと云われるが、うち(大義塾)も、そのような道場になりたいなあ』

とよく語られました。

江戸末期の道場は武士の表芸である剣術と政治及び教養を学ぶとともに将来の外交に備えて人脈を作る目的で、地方の藩が有為な人材を委託留学生として送り込むことが多く今とは少し趣が違っていたようです。

現在の大義塾道場も先生の剣名と遺徳に惹かれた多くの青年が入門して心身の錬磨に汗を流している光景を観るにつけ、また多くの立派な社会人を世に送り出している点で、江戸三大道場に決して負けない盛況振りであると思います。

先人の箴言(しんげん)に【金を残して死するは下ノ下、名を残して死ぬるは中、人を残して死ぬが上ノ上なり】とあります。

世の中には、剣名を拍した達人名人は枚挙にいとまがありませんが、先生のように素晴らしい剣歴と名声をのこして、若くして逝(ゆ)かれて、なお大義塾という道場をのこして、そこで修行する有為な人材を遺し続けている剣道家はすくないのではないかと思います。

中村太郎範士の訓

■自分の弟子や後輩あるいは部下であっても、その人が自分と面識の無い人と一緒の場合は礼儀を忘れてはいけない

『俺は(先生)、京都の街角などで弟子や後輩、仲間などが誰かと歩いている姿に気付いたら、俺の方から先に挨拶をするように心掛けているヨ。』

剣道界では戦前から平安遷都の古事にならって毎年五月三日~六日(頃)に京都の武徳殿へ全国の達剣の士を集めて稽古会や大会を催すのが常になっており、その時期京都の街は武道家でいっぱいになるのです。

前述の言葉は先生が実力、人気ともに絶頂期にあった頃のことで、私は自身を顧みて教えられることがあると思います。

私のような体育会系の人の中には、自分の権威を誇示しようとして、弟子や後輩が連れている人の前でやたらに威張る人をよく見かけます。
本人はどう思っているか知りませんが関係の無い他人から見ると、これほど見苦しく滑稽な光景はありません。
運動部の人達だけでなくサラリーマンの中にも似たような人を見うけるのは大変残念なことです。

幕臣でありながら明治維新に活躍し天皇の侍従まで勤めた山岡鉄舟(無刀流開祖)は剣禅一如の境地に至って剣聖と崇(あが)められている人ですが、その稽古は峻烈(しゅんれつ)であったと伝えられています。しかし、弟子に対しても言葉づかいなど丁寧で慈父のように慕われていたそうです。

私たちは鑑にすべきだと思います。

■指太刀(したち)は一段違いでつか遣え

『親父(藤吉範士)は、少年を遣ったら(指導)日本一だとよく聞くが俺(太郎範士)もそう思う。昔の先生方は指太刀は一段違いで遣(つか)えと教えられた。三段の者を相手する場合は四段の位で、四段の力量の者には五段の業で稽古し、もう少し頑張れば先生を打てるなあと思わせるのが理想的な指太刀であると思うよ。』

恩師の教えの一段違いで使うということは指導者として平素から弛(たゆ)まぬ研鑚を重ねた上に弟子に対する深い愛情がなければできないことであると考えます。

私は永い年月に亘って少年の指導をさせてもらっていますが、今想い起こしてつくづく感じるのは藤吉範士の指太刀(したち)は名人芸であったと思います。しかし、太郎先生も大変上手でした。

【俺は親父には及ばん】と良く云っておられましたが、どうしてどうして指太刀を遣うのも名人で、私など太郎先生には全然さわりませんでしたが、必ず稽古中に本当に入ったかと喜ばせるような絶妙のタイミングで一本打たせてくれました。

当時も未熟だった私は、先生に一本入ったと思って一日が楽しかったことを今でも憶えています。剣道で云われる【一段違いで使う】箴言は、指導する者の立場からみれば他の学問・芸事にも通じることではないでしょうか。

■一回の試合は三十分の地稽古に相当する

『剣道に限らずあらゆる芸事は、良き指導者、師について基本をしっかり身につけることが最も大切だよ。小手先のわざではなく、大きくのびのびと体を捨て切るようなたくましいわざを身につける心構えと練習。うち(大義塾)でやっている【切返し】、【掛り稽古】を主体にした稽古は大変よい。

国士館(先生が入学された当時)では、入学して一年間は、【切返し】のみの練習だったよ。基本がある程度身についたら地稽古に入ってゆくが、実力も四段くらいになったら、できるだけ出稽古(他(よそ)の道場で稽古をすること)をやることを勧めるなあ。

全然知らない人と剣を交えることは非常に緊張するから、技が鍛えられ心を錬ることができる。出稽古の三十分の稽古はうちでの一時間の稽古に当たると思う。
しかし、あまりよそでの地稽古ばかりやっていると、難剣になったり、悪い癖がついたり、品の悪い稽古になったりすることがあるから心しなくてはならない。

そんな時に、率直に苦言を云って注意してくれるのは恩師しかいないよ。
高段者になり、歳をとって、少しでも名が出るようになると影では悪口を云っても、誰も注意してくれない。

師匠は違う。(国士館大学師範斎村五郎範士十段が先生の師で、先生はいつも【俺の師匠】と称しておられた。)有難いと思っている。

昔(戦前)は一にも二にも稽古といわれ鍛錬が主であったが、これからは試合も多くなると思うよ。試合は自分の剣道修業の上達の度合を試みる良い機会であるから、チャンスがあれば出場した方がいい。一回の試合は道場での地稽古三十分やったくらいの価値がある。』

■剣道は子供(下位)を相手しても強くなることができる

『剣道は子供達を相手にしていても強くなるものだよ。俺(中村太郎範士)が一番多く各大会で優勝していた頃は、うちの子供たち(大義塾)としか稽古ができなかった時期だったよ。

>但し、稽古は子供(下位の者)といえども気を抜いたり、基本を無視して稽古しているとダメな剣道になってしまうと思うよ。子供を相手にする時は特に気を入れて、絶えず正しい姿勢で基本通りの打突を出すように心掛けていれば自然に立派な剣道になり強くなるものだよ。』

先生は淡々として教えられたように記憶していますが、子供達を指導するにあたって、私自身を顧みて実際に実行することは大変難しいことであると実感しています。何事も謙虚な態度で事にあたることが大切であると反省しています。

■得意技、必ずしも決め手とはならない

『お前は(私のこと、昔から試合に弱かった。)相手をよく観察しないで無謀に飛び出してゆくが、それでは相手を制することは難かしいよ。
例えばお前が面が得意だからと云っても、その技が決まるとは限らない。相手が抜き胴や出小手技が得意だったら決まる可能性は低い。

まず相対したら相手をよく観察すること。・打つ気の人か、待って強い人か、また表に強い人か、裏に強いか、剣先はどうか等、相手の技の傾向を察知すること。

次は自分の得意技がより効力を発揮できるようにすることだ。それでもすぐに飛び出しては駄目だ。無想剣とは云わないまでも、自分の心のなかで・打ちたい、まだ出てはダメだ!という気持ちの葛藤があって体が自然に出るまで待つことが大切だ。

蓮の葉にたまった露が自然に落ちるような状態で打ちが出せれば理想的だよ。』

『先生(太郎範士)。ではどのような方法で相手の技の傾向をとら捉まえるのですか?』
と私が質問すると、先生はにっこり微笑して

『やり方はいろいろあるがそれはお前自身が稽古と工夫を重ねて自得することだよめんかず面数(稽古の数)にはかなわないよ!』

先生にはとうとう秘術を伝授して戴けませんでしたが、(四十七歳の若さで早世された)いまだに自得することができず不器用な稽古で今日に至っています。孫子の「彼を知り己を知れば百戦殆(あや)うからず」という箴言を聞くたびに・恩師の訓・を思い出して精進の浅さを恥かしくかしく思っています。

■他人(ひと)の試合・稽古をみて工夫すべし

晩年の先生(中村太郎範士)は、よく笑いながら

『稽古して強くなるのは当たり前だ。俺は稽古しないで強くなる法を考えている。』(小林英雄教士八段談。「剣道日本」平成七年十一月号)

と語っておられました。
確かに先生がジョギングをしたり、猛素振、独り形稽古をなさっている姿を見たことはありませんが、私は絶頂期の先生に聴いた話を今でも忘れることができません。

或る日先生のお伴をして剣道大会を見た帰り道

『他人は俺のことを天才剣士と評する者もいるが、俺は他人の試合や稽古を見て感心した技は、その人がどんな機会に、相手がどのような状態になった時にその技を出しているかを研究し、うち(大義塾)に帰ってから、君達に遣(つか)って自分のものになるまで何回も練習しているんだよ。』

と語られました。先生の強さは天性の勘の良さと、若い頃しっかりした基本稽古を充分に積んだ上に、日頃の創意工夫に裏付けされていたものであったと考えます。
先生は他人の知らない所で努力しておられたのです。

そのように考えると先生は稽古後の居間での懇談で私たち門下生が試合に負けた話、難剣の人に叩かれた事などを話すと、先生は見ておられたかのように云い当てられて

『そんな相手にはこのような技で攻めなければだめだ』と云って立ち上がり実際に仕種をして教えて下さいました。

今にして思うと先生にはもっともっと技について尋ねておくべきだったと悔やまれてなりません。

■どんな相手に対しても正しい剣技をもって立ち向かえ

先生(中村太郎範士)ご健在の頃は、先生の剣風に一度接しようと多士済済の高段者の剣士が来塾されました。

私達門下の猛者連(?)も大いに気力を充実させて、その先生方にも稽古をお願いしました。中には難かしい稽古をされる方もあって当時から不器用であった私など散々に翻弄(ほんろう)された苦い経験を今でも思い出します。

或る日そんな私の稽古を見ておられたのでしょう、稽古が終了して先生宅での懇談の時に

『今日のお前の○○君との稽古はなんだ!相手がどんな難剣(剣理を逸脱した稽古を云う。)であろうとも、こちらは絶えず正しい剣風を崩してはだめだ。正しい姿勢、刀筋の通った正しい打ちで相手を制することを胆(はら)に据えて稽古をしなくては、将来お前までがダメな剣道になってしまうぞ!』

と珍しく真顔で諭されました。今にして考えると、その時の先生の教訓を忠実に守っていれば、私の剣風ももっとましなものになっていたのに、私の若い時代は、打ちたい、打たれまいの気持ちが先に立って正しい剣道をわすれて、ずいぶん遠回りの道を歩き続けた事を悔やまれてなりません。

恩師(中村藤吉範士)も常々「打たれて修業しろ、打たれて強くなれ」と教えておられましたが、技の切れが悪く未熟の時は相手に打たれたり突かれたりして苦しいものです。
そこを忍耐強く稽古を重ねてゆくのが修業だぞ!と教えておられたのでしょう。

しかし、我慢のできない人は、体力があれば暴力に頼り、少しの才があれば無法にはしりがちです。それでは物事は大成しません。

毎日のように新聞紙上を賑わしている有名人や大企業の不正事件をみても本業を忍耐強く努力してゆく勇気を失くして安易な利益の追求に走りすぎたのが原因であるように思えてなりません。

相手がどんな難剣であろうとも、自分は正しい剣道で立ち向かうという先生の教訓は現代にも通じる箴言であると思います。

■剣道に限らず何事も積極的に教えを乞う姿勢が大切だ

最近何か物事に取り組む時に【聞いていないから知らない】とか【教わっていないからできない】と云う言葉をよく耳にしますが、このような受け身の姿勢や態度からは燃える情熱、優れた創造力や逞しい意志は生まれて来ないと考えます。

昔の先生方は「技・術は盗み学ぶもので教わるものではない。」という考えかたで、先生の方から親切丁寧に教えて下さるということは決してありませんでした。

――かく述べる私も若い頃、先生(中村太郎範士)に大変な苦言を頂戴して恥ずかしい思いをした経験を持ち今日に至るまで反省させられています。

私は生来の非力と運動能力の無さから、四段を認可されてから、永い年月昇段することが出来ませんでした。

ある時見かねたママ(太郎先生の奥様;先生は奥さんのことをママと呼んでおられたので、われわれ門下生もそう称した。)が、私を代弁して『松永さんはどうして昇段できないのでしょうか?』と先生に尋ねて下さったことがありました。

先生は即座に

『松永は剣道修業(他の芸事も同じ)で一番大切な時期(二十二歳~二十六歳、大学時代でアルバイトなど多忙でした)に充分な稽古をしていないというハンデもあるが、それよりれも稽古が終わったら先生方や先輩に対して【自分の稽古はどこが悪いのでしょうか】と積極的に教えを乞い、謙虚に稽古のやり方を直してゆく態度が見られないのが最も大きな原因だ!』

と答えられました。今でもその時の状況を思い出すと背中から冷や汗が出るような気が致します。その反面、先生が私の一番の欠点を短刀直入にご指摘していただいたことを深く感謝しております。

あれほどご叱正をいただいた剣道の方は相変わらず下手な剣を遣っており、天国でお会いしたら何と言って弁解しようと考えているのですが、先生に教わった何事も積極的に取組む姿勢だけは忘れずに持ち続けておるつもりです。

■稽古中に汗が目に入るようでは稽古が足りんよ

暑い季節での運動の練習は辛いものです。特に剣道は面を付けており、汗が目に入ることは相手に打突を許すチャンスとなります。

先生(中村太郎範士)に稽古をつけていただいた或る日、私も汗が目に入って大変苦しみました。
稽古終了後「今日は汗が目に入って充分な稽古ができませんでした」と言い訳をしましたところ、先生曰く

『短時間の稽古で汗が目に入るようでは修業が足りんよ。元に立っている先生方は一時間でも二時間でも面を取られることはない。どんな運動でも同じだが、その芸道に合ったあせみぞ汗溝ができるものだよ。剣道の場合でも修業を積んでくると、顔に目を逸れた汗溝(汗が流れる川のようなもの)が自然にできるものだよ。稽古を怠っているとその溝はすぐ消滅する。
よく「最近は汗が目に入るようになった」と言う人がいるが、その人は相当に稽古を積んだ経験のある人だと考えた方がいいよ。』

私は稽古中に汗が目に入ることがあると、先生が微笑しながら教えていただいた前述のことを想い起こして、修業を怠っている自分自身を反省しています。

■剣道の修業は何時何処でもできる

私は学業成績は良くありませんでしたが、大義塾で剣道を学んだお蔭で創業したばかりのトッパン・ムーア(株)に就職することができました。

当初は得意先の拡大など苦労の連続でしたが、数年で会社も上昇軌道に乗った頃(昭和四十二年)、社長(宮澤次郎氏。東大卒、剣道五段)に呼ばれ

「これからは社内の更生施設の充実と文化活動を盛んにしたい。手始めとして剣道部を創り、三年以内に全日本実業団剣道大会で優勝するように!」

と命ぜられました。

驚いた私は早速先生(中村太郎範士)を訪ね経緯を説明し相談しました。先生は当時平和相互銀行(住友銀行と合併、全日本実業団で優勝)の師範をしておられました。

先生から実業団の覇者となるには高校・大学の優秀な選手を採用すること。
仕事を持っての剣道練習は稽古量が少なくなるので、試合を前提とした練習方法を工夫すること。(後日、試合用の基本練習をご提示下さった。この基本は毎回の練習時必ず三十~四十分かけて練習することにし、全日本制覇への原動力となった。)
他社との練習試合を時間をつくって多く行うこと等々の貴重な助言を頂きました。

私は先生の助言に添って剣道部を創設し、お得意先(旧三井銀行)のご好意で茗荷谷研修センター体育館をお借りして、全日本実業団制覇を目指して始動しました。

ところが先生は自らも稽古に来て頂き当時神奈川県警察第一線の特練選手(現在県警察主席師範士幸野先生、副主席師範根岸先生、八段小林先生、八段篠塚先生等の錚々(そうそう)たる方々)を同伴して下さって会社の選手諸君を鍛えて頂きました。

そんな或る日、地下鉄で先生を送って帰る車中でのこと。
私はいつものように「仕事が忙しくて稽古が出来ない…」と泣き言を漏らしました。

先生は相槌を打ち聴いておられましたが、

『君、それは違うよ。剣道の修業はいつ何処ででも出来るものだ。例えば、今地下鉄に乗っているだろう。ここででもできる。』

と言って立ち上がり、ツリ革を持たずに二三駅を過ごされました。

『こうして立っていると電車が揺れるだろう。体が不安定になる。左右の足の重心移動を訓練すれば足捌きがよくなる。道場で打ち合いをするだけが、修業ではない。通勤途中でも工夫をすれば稽古はできるものだよ。』

と諭され、剣道々歌『ただ見れば何の苦も無き水鳥の足にひまなきわが思いかな』と口づさまれました。

残念ながら電車が荻窪に着いてしまい道歌の詳しい説明を尋ねなかったのが今だに悔やまれてなりません。

私の遅々として上達しない剣道とは裏腹に、わが社の剣道部は破竹の伸びを示し、先生がな逝くなる前日には関東実業団準優勝、その翌年、創部から三年目で関東・全日本実業団剣道大会優勝の二タイトルを獲るという好成績を収め、全く無名であった実業団剣道界に名を馳せることができました。

今日でも日本武道館内で白い稽古衣姿の我が社の選手諸君を観ると、先生にアドバイスを受けた事、地下鉄の車内で教えて頂いたことなどを思い起し、有難く思っています。